海外「ペリーが来なければ日本はあと何年鎖国できた?」日本のIFストーリーを海外の歴史ファンたちが考察【海外の反応】
「もしペリーが黒船で来なかったら、日本の鎖国はあとどれくらい続いていたか?」——そんなif質問がRedditの歴史IFコミュニティに投稿され、侃々諤々の議論が展開されました。
「ペリーが来なくてもイギリスが来た」「ロシアが一番現実的な候補」「10〜15年後には中国より悲惨な植民地化があり得た」…歴史ファンたちのリアルな考察をご紹介します。
背景・解説
「ペリー来航」とは何だったのか
1853年7月8日、アメリカ海軍のマシュー・C・ペリー提督が黒塗りの蒸気船4隻を率いて浦賀沖に現れ、江戸幕府に開国を要求しました。翌1854年には7隻の大艦隊で再来航し、幕府はついに日米和親条約に調印。200年以上続いた鎖国に終止符が打たれます。その後わずか14年で江戸幕府は崩壊し、明治維新へと至りました。
- 「黒船」と呼ばれたのは、当時の外洋船が木材の腐食を防ぐためにタールで黒く塗られていたから。蒸気船は2隻のみで、残り2隻は帆船でした。
- ペリー来航前、オランダは長崎・出島で唯一の西洋貿易国として日本と交易を続けていました。オランダは1年前にすでに「アメリカの黒船が来る」と幕府に警告していましたが、軍事的・外交的な有効打を打てないまま当日を迎えてしまいました。
- ペリーの名前と同じ「マシュー・ペリー」は、人気ドラマ『フレンズ』のチャンドラー役の俳優としても有名。Reddit上でこの偶然の一致がネタにされるのは定番です(2023年に逝去)。
- ロシアは1853年にプチャーチン提督を長崎に派遣しており、ペリーと並行して開国交渉を進めていました。ペリーが再来航を前倒ししたのも、ロシアに先を越されることへの焦りがあったためです。
- 日本が当時すでに鎖国下で情報を得ていた唯一の手段が「オランダ風説書」。外国の情勢をオランダ経由で年1回入手していました。清がアヘン戦争で敗れたことも、この経路で幕府に伝わっています。
日本人視点からの考察
「ペリーでなければ誰かが来た」——それでも歴史は変わったか
コメントの大勢は「ペリーが来なくてもロシアかイギリスが来た」というもので、鎖国の延命はせいぜい10〜15年が現実的という見方が多数でした。実際、ペリーが浦賀を去った直後に長崎ではロシアのプチャーチンが交渉を進めており、歴史の流れは変えられなかったかもしれません。
一方で、「誰が開国を迫ったか」は決して些細な問題ではありません。ペリーはアメリカの外交的野心を持ちつつも「軍事力をちらつかせつつ条約を結ぶ」という比較的節度ある手法を取りました。イギリスやロシアが先に来ていたなら、その条件はより過酷なものになっていた可能性があります。
日本が植民地化を免れた最大の要因は、明治政府、そしてその前身である幕末の江戸幕府や諸藩(薩摩・長州・佐賀など)が、優れた情報収集力と危機感を持ち、急速な軍事・社会の近代化(富国強兵)を成し遂げたことにあるのではないかと考えます。
まとめ
議論を3点で整理する
- 1 「ペリーが来なくても10〜15年後には誰かが来た」というのが海外の歴史ファンの大勢の見方。最有力候補はロシアで、1858年にウラジオストクを手に入れたことで日本への実質的な脅威となっていた。
- 2 「植民地化は人口密度の高さからあり得ない」と「イギリスならやり遂げた」で意見が真っ二つに。一方で「1850年代以降のイギリスは大規模な植民地拡大に消極的になっていた」という指摘も。
- 3 オランダはすでに長崎・出島で貿易を続けており、「オランダ経由での近代化」という別ルートの可能性も論じられた。アヘン戦争での清の敗北は幕府もオランダ風説書で把握しており、危機感はあったとのコメントも。
ペリーが来なければ、日本の歴史はどう変わっていたと思いますか?
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開国しなさぁい
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